本発表の目的は、戦後教育改革期に日本教育家委員会や教育刷新審議会(委員会)の委員等として、旧教育基本法を中心とする戦後教育理念の形成に直接的に関与した務台理作の日本文化論について、これまで検討対象とされてこなかった史料の分析を中心に、その特質を明らかにすることである。主な検討対象としたのは、務台が1942年秋に南安曇哲学研究会にて「『日本文化の問題』に就いて」と題して2日間にわたり行った講述記録である。そこで務台は、西田幾多郎の『日本文化の問題』(1940年)の内容に関する解説を中心としながらも、務台自身の日本文化論にも言及している。同講述において務台が主題として取り上げた西田の『日本文化の問題』(1940年)は、「日本精神の発揚」をめざして文部省が大学に開催を迫るなか企画された日本文化をめぐる講演(1938年4月・5月)がもととなっている。そのなかで西田は、「国体」や「皇室」、「皇道」といった言葉に言及しながら、それら神聖化することを批判し、また日本文化を絶対視することなく、各々の文化の独自性を認め、新たな文化が創造されて行くことを強調した。そのうえで西田は、日本的特色を最も表すものとして、世界を刹那的一角から見る詩を挙げた。こうした西田の議論を敷衍し、務台が日本の伝承文化(=基層文化)として注目したのは、上代人の思想を表現した万葉集であった。その万葉集に含まれる精神について務台は、西田の議論を踏まえつつ、我の意識を有し、また否定性の意識を有しながら、日常的に物に即して表現する精神であり、自己の否定を通じて主体性を知る精神と捉えた。加えて務台は、万葉の歌は古事記、日本書紀とは異なり、伝説から解放され、極めて人間的であって、一面において極めて身辺的・即物的であると共に、一面において純粋で極めて激しく深く強く感動する精神を表したものと捉えた。
以上のように務台は、伝承文化(=基層文化)としての日本人の精神の内実を万葉の詩に求めた。そして務台は、自己の否定を通じて内から知ること(日本精神の伝統)は、外から知ること(世界史的意識あるいは明治以降の日本)と同一であるとし(南安哲学研究會1942:95)、東洋文化の精神と世界史的意識との結合点として、日本文化の意義を見出そうとした。(附記)本発表はJSPS科研費23K02166の助成を受けたものです。