後白河上皇(1127-92 在位1155-58)は養和元年(1181)と文治元年(1185)の二度にわたり、阿育王伝承に倣って八万四千塔の造塔供養(以下「王塔供養」)を主宰した。 王塔供養の目的は、諸戦乱を通じて発生した数多の死者の供養を通じて怨霊の祟りを鎮める点にある。阿育王伝承によると、即位直後の阿育王は命令に従わない臣下や反抗的な采女の粛清、無実の者の投獄や処刑を行うことで「暴悪阿育王」と恐れられるものの、南閻浮提全土に八万四千の舎利塔を建立することでその罪を贖い、「阿育法王」と称賛されるようになる。ここには、世俗世界の〈王者〉は自らの権力を維持するうえで「殺生」「瞋恚」を犯さざるを得ず、ゆえに仏教における〈護法王〉とは原理的に両立し得ないという問題が含まれている。後白河は、このような問題を神国思想的発想によって換骨奪胎し、戦乱による殺生を〈王者〉としての原罪と位置づけ、「治天の君」の立場に基づき、王塔供養による滅罪を通じて国家安穏・天下泰平を主体的に実現しようとした。