『三宝絵』は永観二年(九八四)、源為憲によって編纂された仏教説話集である。「序」によると、本書は『龍樹菩薩為禅陀迦王説法要偈』所収の偈文「若見図画、聞他言、或随経書、自憶念」をふまえ、「アマタノ貴キ事ヲ絵ニカヽセ、又経ト文トノ文ヲ加ヘ副ヘテ令奉」められたという。また、若くして出家した尊子内親王(冷泉天皇皇女・円融天皇女御)に献呈するという撰述目的をふまえると、『三宝絵』の本来の形態は絵を伴った平仮名主体の文体であったと考えるのが自然である。
一方、現存する『三宝絵』の諸写本は、保安元年(1120)の識語を有する平仮名主体の名古屋市博物館本(旧関戸本)および「東大寺切」と総称される古筆切群、文永十年
(1273)に書写された漢字片仮名交じりの東京国立博物館本(東寺観智院本)、醍醐釈迦院有雅旧蔵の寛喜二年(1230)写本を正徳五年(一七一五)に臨模した真名(漢字)本の前田本と、文字通り〈三者三様〉の異なる文体で記されている。
後二者がいずれも東寺・醍醐寺という寺院に由緒をもつテキストであることをふまえれば、尊子内親王への献呈本、すなわち為憲にとっては「完成形態」にあたる平仮名主体の『三宝絵』のテキストが、寺院において受容される過程で漢字主体のテキストへと改められていったという経緯を想定できる。だとすれば、なぜ寺院では平仮名主体のテキストではなく、漢字主体のテキストが選ばれるに至ったのか。
新川登亀男によると、古代日本における「漢字(真名・真字)」という概念は漢字の導入当初から自明であったというわけではなく、「梵字」「仮名(仮字)」との対比を通じて徐々に自覚されていくようになっていった、という(『漢字文化の成り立ちと展開』)。新川の指摘を念頭におき、本発表では『三宝絵』諸伝本間の文体・表記の比較を通じて、平安時代から鎌倉時代における「漢字」概念の特質の一端を思想的視点から明らかにした。