日中両国で最もポピュラーな大乗経典のひとつである『般若心経(以下、玄奘訳を指す)』のサンスクリット語原題は「プラジュニャーパーラミター・フリダヤ」である。末尾の語・フリダヤは「神呪」を意味する単語であり、漢語の「経」に相当する単語・スートラは原題に含まれていない。しかし、玄奘による漢訳によって、「神呪」と訳されるべきフリダヤの訳語に「心」の字が充てられたうえ、原題に存在しない「経」の字が新たに付加されたことによって、「神呪」であったはずの「プラジュニャーパーラミター・フリダヤ」は、般若部諸経典の核心たる〈経典〉として扱われるようになった。しかし、『般若心経』末尾に配された「ぎやてい掲帝 ぎやてい提帝……」の呪句が梵語の音訳語によって示されている点に象徴されるように、漢訳仏典『般若心経』は〈経典〉〈神呪〉という二つの性格を併せ持つテキストとして受容されたのである。本報告では、八世紀中頃の日本において、三論僧・智光(七〇九?~七八〇?)により撰述された『般若心経述義』において、〈経典〉〈神呪〉という『般若心経』の両側面がどのように受容・消化されていったのかという点を、玄奘の高弟・基(窺基)『般若波羅蜜多心経幽賛』円測『仏説般若波羅密多心経賛』靖邁『般若波羅蜜多心経疏』といった唐僧および新羅僧の手になる先行注釈との比較検討を通じて明らかにしていきたい。