鎌倉時代の律宗僧・叡尊(1201‐1290)忍性(1217‐1303)師弟は、文殊信仰・行基信仰に基づき、南都や鎌倉を拠点に非人や癩者の救済に当たった。彼らが活躍した時期は、生駒山竹林寺にある行基廟から行基の舎利瓶が発掘された(1235)時期にあたり、文殊信仰と一体化した行基信仰が大いに盛り上がりを見せた。東大寺開基に貢献した四名(聖武・良弁・菩提遷那・行基)を顕彰する目的で作成された四聖御影図(1256)において、行基が文殊菩薩の化身として表現されたのは、その象徴的な一例である。
しかし、行基自身が文殊菩薩を信仰していたことを示す史料はない。現存史料において、初めて行基を文殊の化身と見なしたのは『日本霊異記』上巻第五縁である。これは、『行基年譜』や『続日本紀』などの内容が、『霊異記』に収録された他の行基説話や、文殊信仰の功徳を説く『仏説文殊師利般涅槃経』などの経典を介して再解釈され、誕生した言説と考えられる。まずは、日本古代の文殊信仰展開史へ『霊異記』の行基文殊化身説を位置づけるところから始め、文殊信仰と一体化した行基信仰の展開を跡づけていきたい。