中国仏教史上、インドへの遊学及び梵語経典の漢訳事業に携った鳩摩羅什や玄奘は、釈迦が実際に発した言語たる梵語から、梵語とは大きく異なる発音・意味体系をもつ漢語への翻訳により、仏典の精髄が大きく脱落・変質し得ることへの強い危機感を示している。自ら翻訳を行わず、それゆえ漢訳仏典に記された〈ほとけの教え〉の正当性を疑う機会のなかった日本の仏教界でも、梵語を修得すると共に梵語(を含む)経典を大量に持ちかえった空海の活躍を契機として、漢訳仏典を相対視する動きが起こる。本報告では空海・最澄・徳一の仏教的言語観を題材に、異言語間における様々な位相の「普遍言語(漢語・梵語・和語)」を介したコミュニケーション的実践の思想史的意義の見通しを述べた。