唐を規範とした中央集権体制が構築された7世紀後半以降、畿内を遠く離れた東国(東北)地方においても朝廷主導の護国体制と連動した仏教受容が盛んに行われていた。しかし、地方で布教を行う(中央出身の)僧侶の前には「言葉の壁」が大きく立ちはだかっていたと考えられる。そのような現状において、9世紀前半成立とされる『東大寺諷誦文稿(以下『文稿』)』においては唯一のことばで真理を語る〈ほとけ〉の言語能力が、さまざまな方言・外国語間の橋渡し役を行う「訳語」に擬せられている。不空の梵語観を主体に、音訳語と(漢語による)意訳語を重視する最澄の言語観は、地方での布教を前提とした『文稿』の言語観の延長線上にあると評価できよう。