本節では、奈良時代末期に活躍した法相宗僧・善珠(723‐797)撰述『薬師本願経鈔(以下『薬師経鈔』)』を題材として、日本古代における仏典注釈が「知識の発信媒体」としていかなる機能を果たしたかという点を検討した。『薬師経鈔』は先行する中国や朝鮮の『薬師経』註釈書を参考に撰述されたものであるが、単なる切り貼りや引き写しではなく、薬師如来の信仰を通じて獲得できる滅罪の果報を皇権への荘厳へと廻向しようという、先行注釈には見られない独自性が存在する(廻施の論理)。この滅罪の果報となるのが、仏教的倫理観に基づく善悪因果論であり、末法の俗世間に因果論を普及させることで、朝廷や国土を仏教の力で守護することが可能になると考えられた。この〈廻施〉の論理は、鑑真一門によってもたらされた戒律思想に起因するものと考えられるが、最澄の護国思想や説話集『日本霊異記』の編纂意識にも同様の意識を認めることが可能であり、善珠と同じ時代を生きた僧侶たちに広く共有されていたと推測される。
第3章第4節, 〈可能態〉としての仏典注釈――善珠『本願薬師経鈔』を題材に――, 総p.560 pp409-434
藏中しのぶ, 石上英一, 荻原千鶴, 北川和秀, 冨樫進, 吉田一彦, ほか14名。