明治38年東北三県凶作時において児童保護事業が全国展開していく中で、1899年に大阪・十三に移転した博愛社が財団法人化後に第2代社長の小橋実之助が「東北凶作地の児童収容」(1906年5月)を「応分の救済」と捉えて奔走し、岩手県出身者を9人、宮城県出身者5人、福島県出身者29人の合計43人を救済保護した取り組みを明らかにした。特に、郡山や仙台での活動に際していかなる人物との協力があり、凶作地児童は大阪でどのように受け入れられたか、博愛社本社に生じた財源確保と人材確保の必要についていかに対応したかを明らかにした。