鎌倉幕府の初代執権は北条時政であるとする通説は、当該時期の「執権」の実態を考えた時、再考すべき仮題と考える。
すなわち、「執権」とは何かについて、明確な定義づけをする必要がある。佐藤進一氏は「執権北条氏」「執権政治」と記述するのみで、「執権」を自明の理として用い、上横手雅敬氏も「執権とは政所別当の謂」と記述する。そのようななかで、橋本義彦氏は、平安時代後末期に院政が開始され別当が増員すると、実質的責任者として別当の一人が選ばれて執事が誕生。ところが、「上流貴族出身の権勢家」が占有してその地位が名目化されると、執事とは別に執権を設ける必要があったと指摘した。鎌倉幕府は京都朝廷あるいは公家社会のなかで機能した組織を取り入れて、機能させたことを考えれば、「執権」もまた同様であって、その意味で橋本氏の指摘を幕府政治のなかで発展的に考える必要がある。
『吾妻鏡』が後世の編纂史料であることから、同時代史料から「執権」を考えてみると、その前提となる政所別当の就任者、とくにその最上位者の変遷を考えると、時政ではなく、大江広元が該当する。その後、広元が隠居すると義時が最上位者につくが、広元が復職するとその地位から離脱することになる。しかし、『吾妻鏡』建保5年12月20日条からは、義時が最上位であることに気付く。此時、位階に捕らわれない鎌倉的「執権」制が成立したと考えるべきであろう。