相馬一族の奥州移住については、資料(文献史料)の残存性から、後の中村藩主家の祖・相馬重胤の下向・移住を中心に論じられてきた。しかも、重胤が一族を引き連れて太田地区(南相馬市原町久)に移住したという、近世に編纂された資料も使われていた。しかし、鎌倉期の文書史料からは、そのような実態は確認できない。そうしたなかで、文献以外の歴史資料(金石文=板碑)や発掘の成果、それから導き出される中世の海運を通じた流通・物流の観点から、重胤家以外の移住も中止されるようになった。しかし、その多くは行方郡という移住地に注目するものしかなく、本貫地でもある下総国相馬郡にこそ移住の根本原因があるのではないか、という点について、幕府政治の展開とそこから導き出される得宗領の増加、あるいは「熱海船」を介して存在した相馬郡と伊豆山地区との関係から考えるべきという新視点から自説を展開した。