戦国期・諸国の大名・郡主は、諸官途(受領や大膳大夫・弾正大弼などの諸職)捕任を求めて室町幕府へのつてを求めた。以前から幕閣と何らかの関係を有していたものばかりでなく、そうしたつての無いばあいでも、上洛して官途補任を欲したのである。それは幕府にとっても、その権威を再確認させるばかりか、捕任料とでもいうべき謝礼が各大名から納入されることが期待できたことは諸資料から確認できる。しかし、つてのない大名・郡主にとっては困難であったが、本山派(聖護院)や後に当山派としてまとまる醍醐寺系の修験が、その宗勢拡大のために廻国することを幕府は利用し、さらには有力商人(修験を兼ねる場合もある)をも廻国させて、地方の有力者と結びつき、上洛を促せたのである。本稿では、最近確認された新出史料をもとに、南奧諸領主を具体例として、官途補任の実態を検討した。